昭和42年10月2日 朝の御理解
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御理解第一節に、今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ、と。今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ、と。まあ、どういうようなことを持って、今天地の開ける音を聞いて目を覚ますことであろうか、と。天地の音とは、どういうようなことであろうか。昨夜のお月次祭に併せて、ここの、開教式を16日に奉仕しますが、そのことの報告祭が併してございました。
中にお供えをたくさん、色々頂いております中に、あの、珍しい銘柄のお酒が、今、一番正面の方の三宝を盛ってあるのと一番前によく見えないですけも、「松と菊」という珍しい銘柄のお神酒のお供えがございます。この松というのは、私どもが信心の、いわゆる、九州の小倉の桂松平先生が九州に道を開かれて。そして、石橋松次郎先生とか、安武松太郎先生というような大徳の先生が、次から次と輩出される。
そして、その先生方の御信心ぶりというか、御信心態度といったようなものを、まあ、私どもの信心の手本のようにしてまいりました。ね。そういう信心、と。菊というのは、私はここ、合楽の信心と、私は思うのですね。ですから、私どもが、だんだん信心の継承をしてまいりました、信心の受け継いでまいりました、その信心に、また合楽は合楽の、これは、特別なというかね、独特と言いましょうか。
そういう信心を兼ね供えていく信心。そういう信心を、いよいよ身につけて行きたい、と。本気で一つ、お互いが精進させてももらい、また、それを一つ、思い込ませて、松の信心とは、どういう信心だろうか、と。菊の信心とは、どういう信心であろうか、と。
松というのは、どこまでも、どういう寒中にありましても、暑い中にありましても、その、生き生きとした青い、いわゆる常盤木、といわれ、その、色さえ変えないというのが松の信心ですね。いわゆる、桂松平先生の元気な信心とも申しましょうか。不退転の信心とでも申しましょうか。こと、神様のことであったら、前には進んでも後ろには引かん、退かんぞというような御信心である。
菊の信心というのは、もう、それに対象的なようなものですね。まあ、松の信心を男の信心と言うなら、菊の信心を女性的な信心だ、と。自分の心の中に、ね、いつも、その心の信心の喜びを称えさせてもらう、と。そういう信心が、私は一つになって、その、良いものが生まれると、こう思うのです。
で、そういうことを本気で、そうだと、こう思い込ませて頂かなければなりません。そこから、松の信心とは、菊の花の信心とはという、信心の追求をして行かなければならん。昨日、久富くにかさんがお届けをされますのに、昨日は特別奉修委員の方達の御祈念が、御祈念の後にいつもございます。
で、そん時に頂かれたという、日章旗を白地に、赤く日の丸染めてという、その、日章旗ですね。日章旗を、こう頂かれた。ところが、その、それについておる、竹のいわゆる旗竿が短いから、それをこう、継ぎ足しておるところを頂いたと、こう言っておられる。
あれは、あの、日章旗というのは、白地に赤くですから、これは、まあ、いよいよ、若い心というか、真心ということでございましょうね。あの日章旗が、こう、影に、こう閃いておる姿というものは、実に、生き生きとした姿すがすがしいもんでございます。そういう信心をさせてもらわなきゃならん。
ところが、その、竿が短いですから、せっかくの影が、これに良うあたらない。ね。高い竿を、ここに作って、継ぎ足して初めて、竹というのは素直と仰るのだから、やはり、今、ここで久富さん辺りの信心を、素直な信心の手本のように皆が言うんですけれども、まだ、素直さが足りないという感じが致しますですね。 もっともっと素直な信心をさせて頂いてという、私どもになってみると、まだまだ、本当に、本気で一つ、素直にならなきゃならんということを感じます。これも、あの、昨夜でしたけど、お祭りを済んでから、久富正義さんがお届けされます中に、お知らせを頂かれた。それはあの、茗荷が、こう、鉢植えになっておるところを頂かれる。茗荷というのは、その、喜びの茗という風に御理解頂きますですね。
いわゆる、菊の花の信心ですよ、と。自分の心の中に、どこから、こういう喜びが湧いて来るだろうかというような信心です。ね。ところがですね、それは、どこまでも、こう、鉢植えになっておる。これでは、これが大地にドッカリと、こう、根を下ろしたような信心にならなければいけない。いわゆる、鉢という、自分という小さいものを、こう、破って行かなければならない。ね。
私が、大坪聡一郎という枠を破って、例えば私の紋を頂いておりますのは、だいたいは梅鉢ですけれども、その梅鉢が、この、輪を取った中の、いわゆる、天満宮様のご紋の、あの梅の紋だけです。ね。これを大きくしようと思うても、こう、輪があったんではですね、大きく出けないのです。ね。自分という小さい枠があったんでは、大きくならない。だから、この輪を取らせてもらうということは、まあ、我を取らせて頂くということにもなるかも知れません。
より、私を無くするということです。より、私を無くして行く。いわゆる、神様中心にということなんです。ね。ですから、このところを取らなければならない。それが、いわば、大地に根を下ろしたところになってまいります時に、どれだけでも、いわゆる、あの茗荷というのは、どのように、この、繁殖、繁殖ちゅうですか、この、増える植物でございますね。
私はもう、もう十何年前に頂いた御理解の中に、「みょうが栄えるふき繁盛」ということを頂いた。茗荷が、自分の心の中に、喜びの茗荷が、こう広がって行けばです、ふき繁盛も間違いないて。ふきというのも、非常に根をはって、こう、蔓延って行くものなんです。
ですから、皆がその、ふき繁盛のところは願うんです。誰でも、ふき繁盛のおかげを頂きたいわけですから、ふき繁盛のところは願うけれども、その、茗荷のところは願わない。喜びのみょうと、信心の喜びというものを頂かせて頂くための信心。ふき繁盛のおかげを頂くための信心をしとんだけでは、駄目なんだ。
やっぱり、その、茗荷がより元。喜び、信心の喜びが土台である。ね。しかも、それが、いよいよふき繁盛のおかげになって行くためには、どうでも、元気な心。いわゆる、松の信心。前には進んでも、後ろには退かんぞ、と。こと神様のことであったならば、というような信心。ね。
そういう信心を、私どもがいよいよ元気な心でさせて頂く。いよいよ、素直という心でも、もう、限りがない。ね。いよいよ素直にならせてもらう。素直な元気な心で信心をさせてもろうて、自分の心の中に喜びの芽を頂かせてもらう。ね。先日の新聞に(・・?さんが)書いておられますように、自動車を運転して行きよってもです、本当、金光様を自分の心の中に頂くとです、ね、心の中に喜びがいっぱい広がって行く。
しかも、その喜びが何のための喜びやら。どうして、このような喜びが心の中に広がって行くのやらが分からないような。まあ、それを言うならば、心がうずくような喜びを、時折ではあるけれども、感ずることがあるといったような事を書いておられましたですね。
その喜びていうのは、どこから来て、どこから、どこへ去って行くか分からんように、その、不思議なものである、信心の喜びというものは。ね。そういう信心の喜びというものをです、ただ、けれども、そうした鉢植え的なものであっては、もう、それだけのもの。ですから、この鉢が取れなければいけん。私というものは取れなければいけない。ね。
そこは、いわゆる、久富の中に、中心のものではない、久富建設というお店を中心ではない。どこまでも、神様が中心であるという生き方。ね。そこんところには、やはり、一つの難しさがある。ね、神様中心でまいりますとです、やはり、人からとやこう言われたり、笑われたりするようなこともある。ね。
けれども、神様には笑われてはならんという生き方なのである。ね。そういう生き方にならせて頂く時にです、その茗荷は鉢植えから大地に根を下ろしたようなものになって来るのじゃなかろうか。そこに、その、正義さんの心の中に、あるところの喜びがいよいよ、茗荷栄えるということになって来るのじゃなかろうか。ね。ぜんぜん、その茗荷が、いわば限りなく広がって行くようなおかげになった時にです、ふき繁盛のおかげは、もう、これは願わんでも頼まんでも頂けれるおかげ。
みんながふき繁盛のところは願うけれども、茗荷の栄えるということを願わない。ね。そういう信心が、いよいよ、こう育って行くということ。ね。今天地の開ける音を聞いて目を覚ませというのはですね、皆さんが、こうやって朝帰りに御理解を頂かれる。ね。そういう、おかげの開けて行くところの元は何かと言うと、自分の心が、はあ、そうだと、本当なことに開けることなんです。
ね、それを、宗教的な言葉で言うと、悟りと言う。どんなに、今、難儀を感じておっても、苦しいことがあっても、はあ、そうだったと分かるとですね、その苦しみが苦しみではない、喜びに変えられる。悟りていうものは、そんなに有り難い。
今天地の開ける音というのは、そこで皆さんが、こうして御理解を頂いて、これは、もう、いわば、天地の音なの、天地の声なの、神様のお言葉なのだ。ね。そのお言葉を、ただ聞いて流したのでは、何もならん。自分の心の中に、はあ、そうだ。自分の生き方が間違うておった。本当に、そうならなければ、人間の幸せというものは開けて、今日がいらないということをです、分からせてもらう。
こういう信心では駄目なのだ。ね。本気で松の信心を身につけさせて頂こう、いよいよ、菊の信心を自分のものにして行こう。それには、こういう信心が必要なのだということをです、分からせてもらう。そのことを本気で、私は思い込みというのでも、そういう天地の開ける音を聞いて目を覚ました後にしか、その、本気というものは出ないと思う。ね。
そういう、私は、その、本気なものがです、心の中に開けて来る。ね。今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ、と。何十年、信心しておっても、そこんところの開けない人がある。なるほど、その、おかげは受けて行く。おかげは受けます。ね。お願いをさせてもらって、お取次ぎを頂いて、おかげは、病気も治った、ね、医師のおくり合わせも頂いた。
けれども、それは、それだけのもの。いよいよ、茗荷栄えるふき繁盛ということになって行かない。ね。茗荷栄える場も、ぜったい、ふき繁盛のおかげは、もう、絶対のものなんです。願わんでも頼まんでも、繁盛のおかげになって来るのだ、と。そういう元を頂かなければならない。そういう元を頂かなければ、人間の幸せはあり得ないということをです、私は思い込ませてもらうということ。
それを日々の御理解の中から、はあ、そうだ、というものを頂かせてもらう。それが、私は天地の開ける音を聞いて目を覚ますのではなかろうか。今までは、いわば、そういう芽がそびれておったというか、実のっておった。それを、何かの機会に、自分の心の中に芽を開かせてもらう。まあ、例えて言うならば、私どもが何十年間、信心させてもろうて。お願いをすりゃあ、おかげを頂く。お供えをすりゃあ、おかげを頂く。もう、間違いなかったですよ。たしかに、おかげを頂きましたよ。
けれども、そういうおかげは頂きましたけれども、けっきょくは、あの、みんな、なら、私は北京なら北京におりましたから、北京にそういうものは置いて来なければならなかったんですから。ね。言うなら、泡のようなおかげだったんですよ。ね。そういうおかげならと、私がいよいよ思わせて頂いて。もう、信心はいよいよ、本気で本心の玉を磨くこと以外にはない、改まって行くこと意外にはないんだ。
そして、自分の徳なり、自分の信心なりのものに甘んじて行こう、と。こちらの信心さえ出ければ、ね、おかげが段々、大きく育って来たようにです、今までの信心では駄目だったということを分からせてもらって。そこから新しい、本当の信心が、より自分の心の中に茗荷が、いよいよ繁盛して行くことの楽しみが出けてきた、そこが分かって来た。まず、信心を頂くことだ、と。まず、信心の喜びを頂くことだ先だ。
ね、そんなところに、こう、そういうことから、こう、芽が出る。天地の開ける音を聞いて、目を覚ましたわけです。ね。そこから段々、私というものが無くなってきた。いわゆる、梅鉢な、梅のあの紋どころの、あの、周囲の円いのが取れておかげを蒙って参りましたら、その、何ぼでも、これが大きくなって行けれる、枠が無くなったですから。ね。
これからも、どこまで大きゅうなって行けれるか分からないという、一つの希望が私の心の中にある。ね。この( )があったら、もう、これだけのものです。そこんところをです、皆さんがいよいよ、分からせてもらい、思い込ませてもらい、いわゆる、天地の開ける音を聞いて、ひとつ、目を覚まさせてもろうてです、茗荷栄えるふき繁盛のおかげを頂かせてもらうために、いよいよ、松の信心が大切であり、いよいよ、菊の信心を大事にしなければならないということを感じますね。
どうぞ一つ、昨日、久富くにかさんが頂かれたという、久富正義さんが頂かれたという、ね。信心は、もう、これで良いということはない。より、素直な心で、元気な心でおかげを頂いて行くということと同時に、自分というものを中心の信心から、いよいよ、神様を中心にしたところの信心。そこには、限りなく大きゅうなって行けれる、私は元が出けるんだと、こう思うですね。どうぞ。